黒田家譜

「黒田家譜」は他の著作と違い益軒が40代の若き頃に藩の命令で書かれたものです。 そう言った事情より「黒田家を美化するため多くの脚色がなされている。」との指摘もあるのですが、その検証をする事がなかなか難しいようです。その理由は「黒田家譜」は訳本も含めて現在出版はされていないようで、また古本としても数わずかなものが高額で取引されている状況があり多くの人の手が届かないからではと思われます。 現状として「黒田家譜」を参照した史家や作家の文章からその内容を推し量るしかないのが非常に残念です。

追記  最近、「黒田家譜」のデジタル図書に行き着きました。一つは福岡県立図書館のデジタルライブラリー、もう一つは国立国会図書館デジタルコレクションの「益軒全集. 巻5」の中にありました。

以下に「黒田家譜」を参照できるページへリンクを貼っています。

【「黒田家譜」に関する投稿】

黒田家譜・四国攻め 投稿日2024年3月9日
四国の覇者・長宗我部元親が服さないため、秀吉は四国攻めの命を発します。羽柴秀長と秀次は6万の兵を率い阿波に入り、小早川隆景は伊予に3万の兵で上陸します。孝高は検使として宇喜多、仙石等の軍2万と行動を共 [...]

金銀も土石のごとく思うなり 投稿日2023年11月12日
我今の生涯は、一身の安楽より外、何の望もこれなし。金銀も用なければ、土石のごとくおもふなり。又人に用られ、誉を得んと思ふ心もなし。奇麗なる家作、衣服等も無用なり。朝夕の食美味を用ゆべからず。只飢ゑず寒 [...]

天下また乱世となるべし 投稿日2023年11月11日
家康公関ケ原の一戦に若(もし)打負たまはば、天下又乱世となるべし。然らば我先九州を打したがへ、其勢を以(もち)、中国を平げて、上方へ攻上り、家康公秀忠公を助け、逆徒をほろぼし、天下を一統して、忠義を盡 [...]

秀吉の手紙 投稿日2023年10月22日
信長より中国の毛利攻めの命を受けた秀吉は姫路に入りますが、これを出迎えた孝高は士卒を町家に、秀吉は一旦、私宅の二の丸へ迎え、本丸の掃除が終わると秀吉をこちらへ案内します。また城下の屋敷を目録にし、秀吉 [...]

善の善なる者也 投稿日2023年10月14日
「知略を好み、人を殺す事を好まず。毎毎和議を以(もち)、敵を降参せしめ、人の軍を全(まっと)うして、人の命を助くる事、毎度其(その)数をしらず。百度勝(かつ)は、善の善なる者にあらず、戦はずして人の兵 [...]

適材適所を把握する秘訣 投稿日2023年9月24日
如水は長政や諸家老を前に、上下の相性は不正の根源になる事があるので注意するように促しますが、これとは別に部下を適材適所に配置するための秘訣についても触れています。   「家老たる者の、威高ぶ [...]

相口と不相口 投稿日2023年9月23日
あるとき、如水は長政や諸家老を前に『相口』と『不相口』について語ります。   「人には『相口』と『不相口』いう相性があり、これは家臣を使うのに大事なことである。家臣には主君と相性がよいものが [...]

臣下百姓の罰おそるべし 投稿日2021年5月5日
『黒田家譜 巻之十五 如水遺事』に次の通り孝高の遺訓が載せられています。 如水の曰、神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし。其故は、神の罰は祈てまぬかるべし。主君の罰はわび言 [...]

一国一城令 投稿日2021年5月4日
大阪の陣が終わると、幕府は「一国一城令」を発します。『黒田家譜』にはこの奉書の内容が残されています。   急度申入候。仍貴殿御分國中居城をば被殘置、其外の城悉可有破却の由上意に候。右 [...]

忠之、大阪の陣へ参陣す 投稿日2021年5月2日
1614年(慶長19年)、大阪の陣が起こります。家康は兵を大阪へ発向しますが、黒田長政、福島正則、加藤嘉明は江戸に残る事を命ぜられ、豊臣恩顧の武将の参陣は許されませんでした。これは、大阪方に寝返る武将 [...]

秀吉の九州仕置き 投稿日2021年2月17日
秀吉は島津を降すと筑前に戻り、九州の仕置きを行います。   小早川隆景  筑前国、肥前の基諱郡(三養基郡)、養父郡(鳥栖市)、筑後の三潴郡(久留米西部)、三原郡(小郡市、現在の三井郡) [...]

後藤又兵衛の馬取り逐電す 投稿日2021年1月23日
戦国最期の戦い・大阪の陣で華々しく散った後藤又兵衛は、若き頃、秀吉の島津攻めに孝高の部下として従います。そして日向、耳川付近での一騎討。馬上の組合で川に落ち、上になり下になりの取っ組み合いとなりますが [...]

肥後国衆一揆 投稿日2021年1月17日
1587年5月、秀吉は島津を降伏させ、6月には筑前に戻り九州仕置きを行い、7月初旬には九州を去ります。しかしその直後に佐々成政に与えた肥後で国衆一揆が起こります。 これは島津を離れ秀吉に従う際に領地の [...]

島津義久降伏す 投稿日2021年1月10日
秀吉は鹿児島の40㎞ほど北西の泰平寺に入り、先陣の16万の兵は既に鹿児島に迫ります。これに島津義久は降伏を決断し伊集院左衛門(忠棟?)を孝高の元へ使者として送ります。この報は秀長を通して秀吉に伝えられ [...]

村重、孝高を禁獄す 投稿日2020年12月31日
孝高は毛利に寝返った小寺政職を再び説得するため御着城へ向かいます。御着では孝高が姫路城に立て籠もるものと予想していましたが、少数の供を連れて来城した孝高に安心します。また姫路の城では能の催しが開かれて [...]

摂津播磨離反す 投稿日2020年12月30日
そなたと我等の間柄は他の者たちより誹りを受けるべきものではない。また何事もそなたに任せても、他の者がどうこうの言うべきことでもない。しかし既にその様な陰口もあるようだ。我等を憎むものはそなたまで憎むこ [...]

備中高松城の水攻め 投稿日2020年12月27日
三木の干殺し、鳥取の渇え殺しと言われる兵糧攻めで三木城、鳥取城を落とした秀吉は次に備中高松城を攻めるため高松の東、蛙が鼻という地に陣を取ります。 高松城は城下町から北側に少し離れた田園地帯の中に建つ城 [...]

孝高の説得術 投稿日2020年12月22日
島津氏は肥後、肥前、筑後と各地の国衆を従わせ北上し、大友氏を追い詰めます。また筑前各地の国衆は大友氏と対立していたため、島津氏の北上を歓迎します。秀吉は島津氏征伐のため大軍を九州に上陸させるものの、九 [...]

原田氏の先祖の事 投稿日2020年12月20日
戦国時代には筑前の西部一帯を支配した原田氏ですが、『黒田家譜』にはその先祖ことが書かれています。   原田の先祖は、後漢の霊帝の孫、阿智王、始て日本に来り、播州大蔵谷に着岸す。其中に、日本に [...]

長宗我部信親の最期 投稿日2020年12月19日
仙石秀久と長宗我部元親は島津氏に攻められる大友氏救援のため四国から豊後へ渡り「上の原」に陣を敷きます。 そこに大友の支城を島津の大軍が囲んだと知らせが入ります。仙石秀久は支城の救援を急ごうとしますが、 [...]

秀吉薩摩に使者を遣わす 投稿日2020年12月16日
秀吉は九州制覇を目指す薩摩の島津義久へ自重を勧めるため、浅野長政および木村重茲を使者として送ります。   使者の口上には、合戦やめて上洛すべき由、被仰遣ける。島津是を聞て、あざわらつていわく [...]

事は密を以って成る? 投稿日2020年12月9日
事は密なるを以って成り、語は泄るるを以って敗る これは韓非子の言葉だったと思いますが、『黒田家譜』にはこの言葉を彷彿とさせるちょっとゾッとする話が書かれています。   「京都にありし信長の臣 [...]

本能寺の報、毛利に届く 投稿日2020年12月8日
秀吉の陣に本能寺の報が届いたのは1582年6月4日未明になります。孝高は早朝に毛利に使者を遣わし「約束の人質の早急の差出し」を促しますが、毛利側は「準備中」と履行を引き延ばしにしていたところへ、金井坊 [...]

岩屋城の戦い 投稿日2020年12月6日
『黒田家譜』では「岩屋城の戦い」について簡単に触れています。 (島津義久は)薩摩より大勢を出し、肥前、筑後の兵会わせ、筑前秋月の城主、秋月種実を催し合せ、筑前国太宰府の北なる岩屋の城を攻略す。城主高 [...]

戦国九州の情勢 投稿日2020年12月6日
貝原益軒は『黒田家譜』に1586年頃の九州の情勢を次の通り記述しています。   この頃は乱世にして天下いまだ一統せず。国々処々の城主主君なくして、面々に領地をもつ。 一国に地頭七、八人、或い [...]

囲師必闕 投稿日2020年11月26日
1577年11月、秀吉の軍は福原主膳の守る佐用城を攻めます。孝高は夜間に佐用城の三方を囲み、あと一方を空けて攻撃します。城では激しい戦いとなりますが、最終的に城は落ち福原主膳は囲みのない西の裏山へ脱出 [...]

秀吉の手紙 投稿日2020年11月25日
黒田藩には秀吉が孝高に送った手紙が残っていた様で貝原益軒の書いた『黒田家譜』にはその手紙の内容が多く転載されています。 そして益軒はその後に次のように書いています。   秀吉公初卑賎にして、 [...]

孝高、信長面会 投稿日2020年11月24日
福岡市博物館には『へし切長谷部』という名刀が収蔵されています。 この刀は織田信長が黒田孝高に賜ったものだとされています。   時は1575年。孝高は「毛利に付くか織田に付くか」で揺れる主家・ [...]

毛利と宇喜多の旗 投稿日2020年11月23日
孝高は毛利と和睦し備中高松城の包囲を解いて京都に引き返す際に、毛利の将・小早川隆景に毛利家の軍旗を2本無心しています。 隆景は不審に思い「旗ばかりお貸ししても大した足しにもなりますまい。毛利家の兵はこ [...]

松壽丸危うし 投稿日2020年11月22日
孝高は信長に面会した翌々年(1577)の秋に、再び安土の信長の元を訪れます。そして同道した嫡男・松壽丸(長政)を人質として差し出します。信長はこれを長浜の秀吉へ預けます。 ところがその翌年、摂津有岡城 [...]

異説 賤ヶ岳の七本槍 投稿日2020年11月4日
益軒は『黒田家譜』で賤ヶ岳の七本槍の事を次のように記述しています。   福島一松先駆して首をとり、秀吉の御目にかける。その外秀吉の勇士、加藤虎之助、加藤孫六、平野権平、脇坂甚内、粕屋助左衛門 [...]

赤松則房の事 投稿日2020年11月1日
赤松則房は、足利尊氏が九州落ちした際に播磨で後醍醐天皇方の勢力を防ぎ、尊氏を京に復帰させることに大きく貢献した赤松円心の家系になります。赤松氏は播磨の守護として代々続きますが、戦国時代には配下の台頭も [...]

勝龍寺城攻め 投稿日2020年10月14日
山崎の戦いに敗れた明智軍は勝龍寺城に籠ります。大軍となった秀吉の軍は四方から城に攻めかけますが、この状況に孝高は秀吉に提案します。 「明智一命を捨て防がんと存じ候も、つき従う士卒は皆、大軍に囲まれ、 [...]

本能寺の変を報せた男 投稿日2020年10月11日
本能寺の変は1582年6月2日の午前4時頃、明智光秀の軍が本能寺を取り囲んで始まります。 この事変の報を受けた信長の臣・長谷川宗仁は書状を配下の者に託し、備中に出張中の秀吉への飛脚を命じます。 この飛 [...]

黒田家譜 孝高 投稿日2020年7月27日
黒田官兵衛孝高は雪の積った日に生まれます。 貝原益軒は黒田家譜で次の通り描写しています。 「母は明石氏、天文十五年・・・孝高播州姫路に生(うめ)り。この時雪降りてその家おおう」 益軒は続けて 「天性 [...]

福岡の一夜城・益富城 投稿日2018年11月4日
島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は [...]

 
 
 


「福岡史伝 -孝高伝-」へのリンクです。