備中高松城の水攻め

三木の干殺し、鳥取の渇え殺しと言われる兵糧攻めで三木城、鳥取城を落とした秀吉は次に備中高松城を攻めるため高松の東、蛙が鼻という地に陣を取ります。
高松城は城下町から北側に少し離れた田園地帯の中に建つ城で、貝原益軒は『黒田家譜』に次のように記述しています。
 
此城は中國第一の名城也。上邊川の中島にて要害よければ、仕寄を付べきやうなし。其上城中より鐵砲をよくくばり打せければ、寄手打たるる者数をしらず。
 
城のまわりは、田地が広がり障害物がなかったため仕寄(城攻めに使う竹など束にした楯)を設置する事も難しく、その上、城から鉄砲で狙われるので近づく事もできない状況だったようです。
そこで秀吉は水攻めに方向転換し、堤を築いた上で川をせき止めようとします。ところが、川に巨石を転がし込むも水の勢いが強く、次々に流されていきます。この難問を秀吉から相談された孝高は川下にある船を集め、巨石を積込んだ上で、船底に穴をあけ沈めます。そこに竹や木材、土石を投げ入れるとようやく川の流れを止める事ができました。
 
水やうやくみちたたへて、十日を経て後、城の四方に水漫々たり。・・・(中略)・・・日を経、水漸(ようやく)增(ふえ)りて城をひたせり。城中の者共、最初の程は二階天井などに上りけれども、後には其上にも亦(また)水上りて、家々水底になりぬれば、数千人の士卒高き梢に簀(すのこ)をかまえて集り居たり。
 
1582年6月2日、城主・清水宗治は籠城する人々の命を助けるために、兄・月清入道、難波、近松(末近?)と共に切腹します。しかし、この日の早朝に京都・本能寺で信長は光秀に討たれ既にこの世にない事を知る者は、この地には誰ひとりとしていませんでした。
 


清水宗治の自刃は本能寺の変が秀吉の陣に伝わった6月4日との説もあるようです。