1614年(慶長19年)、大阪の陣が起こります。家康は兵を大阪へ発向しますが、黒田長政、福島正則、加藤嘉明は江戸に残る事を命ぜられ、豊臣恩顧の武将の参陣は許されませんでした。これは、大阪方に寝返る武将が出る事を危惧した幕閣の配慮だと考えられるのですが、この方針により、豊臣恩顧の武将たちは微妙な立場になり、多少の流言も流れたようです。
父の江戸待機に代わり、筑前にあった嫡男で12歳の忠之に参陣の命が下ります。
江戸で長政が流言に遭った事が伝わると、忠之は熱病で体調が思わしくない体を押して、兵を率い早々に大阪に参陣します。
これを知った家康は忠之を呼び寄せますが、忠之の瘦せ衰えた体を見て「体調も思わしくない上、早々に参陣し、母上もご心配な事であろう」と忠之の手を取って、涙を浮かべたという事です。
その後「忠之の病は仮病では」と聞かされていた将軍の秀忠にも謁見し、流言による黒田家への誤解は氷解したという事です。