仙石秀久と長宗我部元親は島津氏に攻められる大友氏救援のため四国から豊後へ渡り「上の原」に陣を敷きます。
そこに大友の支城を島津の大軍が囲んだと知らせが入ります。仙石秀久は支城の救援を急ごうとしますが、長宗我部元親は援軍を待つべきと主張します。秀久は四国平定で元親を降した立場であったため、敗軍の将の言葉に聞く耳をもてなかったのかもしれません。
「左あらば、我一手にて戦ふべし」と単独で討って出ます。
元親は「この上は討死すとも力及ばず。ここに仙石を打せて、救わずんば、わが家の弓矢の長き瑕勤(かきん・キズの事)となるべし」と秀久の後を追います。
しかし秀久は島津の大軍に破れ敗走、島津の軍は勢いに乗り、次に元親の子・信親の陣へ突撃します。信親はこの大軍を恐れずもせず、四尺三寸の長刀で奮戦しますが、敵の数は次第に増え信親を取り囲みます。
信親あたりなる敵を打拂て、腹を切んとしけるところを、敵透間もなく走より、大勢の中に取こめて、終に、信親をうち取ける。この時、長宗我部臣、細川源左衛門、福富隼人佐は、元親に暇乞して取て返し、信親に殉て討死す。
元親も信親の死を受け、自身もここで死すべしと馬を降り太刀を握りしめ、敵の大軍を待ちますが、この様子を見かけた家臣の十市新左衛門が駆け寄ります。
何とて退給はぬぞ、大将の討死し給う所にてはなきものをと、つよく諫めて我馬にのせんとする處に、元親の馬かけ来るを、新左衛門取て乗せ、馬を追立をのれ(己)も續て引退き、上の原の城へぞ入にける。
信親は歳二十二歳、背丈180㎝を超える偉丈夫で、周りの人々はみな信親の死を惜み、秀吉もこの事を聞き及び涙を流したということです。