黒田家譜・四国攻め

四国の覇者・長宗我部元親が服さないため、秀吉は四国攻めの命を発します。羽柴秀長と秀次は6万の兵を率い阿波に入り、小早川隆景は伊予に3万の兵で上陸します。孝高は検使として宇喜多、仙石等の軍2万と行動を共にし屋島付近から上陸します。この軍は喜岡城を落としますが、そのまま南下せず東に廻り秀長の軍と合流します。この時、秀長は一宮城を落とし、秀次は要害の城・岩倉城を攻城中でした。
 
秀長秀次は孝高の来り給へるを甚(はなはだ)悦び、孝高には秀次をたすけらるべき由(よし)にて、岩倉の城へぞ向はれける。此(この)城険要の地にて、城の守将は長宗我部掃部頭(かもんのかみ、元親とは別人)とて大剛の士なり。秀次城を攻べき謀(はかりごと)を孝高にとはれけるに、孝高答ていはく、此城要害よければ、人力を以(もって)攻べからず、謀をめぐらし、敵の心を屈し、あつかい(交渉)を以城を降すべし
 
孝高は材木を集め城中の櫓より高い櫓を組み上げて城中を監視し、あちこちから鉄砲を撃ち掛けさせます。また、日に三度、兵士に鬨の声を上げさせ城兵に圧力をかけます。
 
城兵勇猛なりといへども、四萬餘の大軍山野一同にとりかこみ、同音に鬨(とき)をあげしかば、大山も崩るるがごとし
 
城兵たちも日々戦意が薄れます。
 
城中機を屈して降参の志あり、孝高是(これ)を察して、あつかひ(交渉の使者)をいれ給しかば、やがて同意して城をあけ渡し、掃部頭は兵衆を率ひ土佐国へ帰りけりる。孝高の謀にて兵力を労せずして、日数十九日の間に城を降し給ける。
 
この開城を機に周辺の諸城も降伏、あるいは逃げ去り抵抗は収まります。その後に伊予も小早川隆景に攻略され、抗する手立てをなくした元親は降伏し秀吉の四国攻めは完了します。
 
戦後の恩賞は次の通りです。阿波は蜂須賀小六、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景(内二万石は安国寺恵瓊、三千石は来島、一万四千石は徳井)に与えられ、長宗我部元親は土佐一国を領することが許されました。