秀吉の陣に本能寺の報が届いたのは1582年6月4日未明になります。孝高は早朝に毛利に使者を遣わし「約束の人質の早急の差出し」を促しますが、毛利側は「準備中」と履行を引き延ばしにしていたところへ、金井坊という山伏が毛利の陣へも本能寺の報をもたらします。毛利輝元は一族、家老を集め評定を行いますが、芸州に一旦もどり様子を見るべきではないかという者もあり、意志決しがたく一言も発言しない者もおり、評定が煮詰まりません。
ここで強硬派の吉川元春(元就次男)が発言します。
「今迄人質を遣はさぬこと幸なれ、信長薨去せられぬる上は、最早(もはや)天下は此方の天下なり。羽柴、宇喜多に人質出せと申遣すべし。若(もし)異儀に及はば、是迄来り居る大勢を以て、早々押寄せ討亡(うちほろぼ)すべし」
これにしばらく思案した小早川隆景(元就三男)は次の通り発言します。
「元春のたまふ所無理なきにあらずといへども、つらつら今の天下の勢いを考え見るに、今度秀吉を討て上方に攻上り、天下の敵と戦はば、勝負いまだはかり難し。若又たやすく敵をほろぼして、一旦天下を得たりとも、長く天下を守る事、其徳なくしては成がたし。然れば、たとひ草創はたやすくとも、守文は却(しりぞけ)てかたかるべし。守文なりがたくして天下を失はば、当家遂に滅亡して、元就公多年御辛労を以、切取給ひし数ケ國を失ひ、莫大の御功業ここに至て絶なば、天下後世の嘲弄となるべし。・・・」
と自重を勧めます。隆景は知略あり、一族、家老には心腹する者も多かったため、評定は隆景の案に決します。
毛利はここまで、秀吉の軍勢に押され徐々に前線を西へ押され、不利な状況でしたので、一旦体制を立て直す必要もあったのではと思われます。
隆景のこの時の判断で、秀吉は天下を掴み、関ヶ原では本州の西に追われるものの毛利家、吉川家共に江戸時代も存続し、幕末の毛利長州藩は討幕の原動力となっています。
ただ元春は元より隆景でも、「あの時、自重せず動いていればどういう流れが待っていたのだろう」と心の中で回顧した事を想像するに難くありません。孝高は「分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」という言葉を残していますが、もし孝高が毛利側の武将であったのであれば、この時、もしやの行動を起こしていたのかもしれません。成功したのか、もしくは隆景のいう通りに無に帰したのかは、想像するしかありません。
隆景の発言の中にある「守文」とは父・元就の「天下を競望せず(天下を望まない)」という言葉の事になります。言葉は吉川家文書の吉川広家自筆覚書案にある「御子孫も、天下御競望会以被思召寄間敷通、連々被仰聞さるの由、元春内々申候(祖父・元就は子孫も天下を望むような事があってはならないと度々仰せられた。と父・元春が申された)」という文章でも残されています。