戦国九州の情勢

貝原益軒は『黒田家譜』に1586年頃の九州の情勢を次の通り記述しています。
 
この頃は乱世にして天下いまだ一統せず。国々処々の城主主君なくして、面々に領地をもつ。
一国に地頭七、八人、或いは十余人これ有り、各城をかまえ、大は小を侵し、強は弱を掠めて、お互いに合戦やむ時なし。
薩摩の島津義久は秀吉公に帰服せずして、薩摩、大隅、日向三ヶ国を押領し、豊後の大友、肥前の龍造寺と雄を争い、しばしば兵を出して、近国を侵し、ことごとく我が旗下に属しめんとす。近年大友、龍造寺に戦勝てより以来、九州多くは島津氏にたが(手返)えり。

黒田家譜巻之三の冒頭部(一部略)より
 
前年に四国平定を終えた豊臣秀吉は大友宗麟の要請もあり、本格的に九州平定に乗り出します。