海舟は21歳で、福岡藩士・永井青崖から和蘭語を学び、その後、29歳で佐久間象山の塾に入り蘭学や西洋科学、技術の習得に励みます。
そして頃を同じくして、黒船が浦賀へ来航します。
黒船を直に目にした勝は危機感を感じ海防意見書を提出します。それが上層部に認められ、翌々年には長崎海軍伝習所へ入門を命じられます。そしてその5年後には咸臨丸の艦長として渡米し、米国文化に直に触れます。
見識を深め帰国した勝の元には、多くの人が教えを請いに訪れますが、これに対し勝は「ただ放言大語してその人を驚かすごときのみ」(松村介石)と言った態度で接します。「勝という人は、怒らせるようなことをよく言う人ですな」と薩摩の吉井友実もそう言ったといいます。