事は密を以って成る?

事は密なるを以って成り、語は泄るるを以って敗る
これは韓非子の言葉だったと思いますが、『黒田家譜』にはこの言葉を彷彿とさせるちょっとゾッとする話が書かれています。
 
「京都にありし信長の臣長谷川宗仁より飛脚来りて、孝高に対面し、昨二日(1582年6月2日)京都において、信長公併(あわせて)信忠卿を、明智日向守が弑し奉りたる由、ひそかに申て状を捧ぐ。孝高飛脚に対し、扨(さて)も汝は早く来りたり、信長公御薨去の事、必人に語るべからず。・・・」
 
これは「本能寺の変」の報が飛脚によって豊臣秀吉陣営にもたらされる場面です。孝高とは秀吉の参謀・黒田官兵衛の事で、孝高はその飛脚の手を引いて台所へ連れて行き、酒食を与え休息させます。
そして孝高は直ぐに秀吉に面会し今後の事を打ち合わせ、明智討伐のため兵を京都へ取って返す事を決意させます。
会談後、秀吉は孝高につぶやきます。
 
「其飛脚信長公弑され給ふ事、人に語り敵陣にもれ聞えなばあしかりなん。急ぎ飛脚を害すべし」
 
孝高は台所に戻り疲れて寝込んだ飛脚を起こし、信長公が殺された事を絶対に他言しない事、人に会わない事を約束させ家臣に預けます。
 
「彼飛脚一日半夜の中に、七十余里の道を来り告る事、是誠に天の使なり。其上飛脚に弑すべき科なくして、早く来るの功あり。世静にならば、賞を行はるべき者也。いかんぞ是を殺さんや」
『黒田家譜』の著者・貝原益軒は孝高の心の内をこの様に書き表していますが
「長途に疲れ餓て、俄に大食せし故にや、其後幾程なく病死しけり。」
と飛脚の記述を終わらせています。
 


この飛脚の死に関しては、様々な事が想像されるのですが、これに言及しても今となっては真実に行き着くのは難しいのかもしれません。ただ益軒は「病死」としながらも、読者へ意識的にこの死の謎を提起したのではないかと想像するのは考え過ぎなのでしょうか?