肥後国衆一揆

1587年5月、秀吉は島津を降伏させ、6月には筑前に戻り九州仕置きを行い、7月初旬には九州を去ります。しかしその直後に佐々成政に与えた肥後で国衆一揆が起こります。
これは島津を離れ秀吉に従う際に領地の安堵を約束されていた肥後の国士たちに対し、成政が検地を強行しょうとした事が原因になります。
山鹿の国士、隈部親永は兵を挙げ居城に立て籠もります。成政は自ら山鹿に向かい親永を攻めますが城を容易に落とせず、付城を築き長期戦に備えます。しかし今度は熊本の国衆が一斉に挙兵し成政の居城の隈本城を包囲します。成政は慌てて隈本城に戻ろうとしますが、帰路には敵が多く、迂回してどうにか城に戻ります。
この報を受けた秀吉は筑後肥前より兵を派遣し兵糧を送るよう指示を出します。
成政より直接、救援要請を受けた筑後の立花宗茂は兵糧の尽きた成政の付城に兵糧を届けた上、大きな損害を出しながらも敵と激戦を交わし勲功をあげます。
最終的に成政は隣国の武将たちの協力を得て一揆を鎮めますが、『黒田家譜』にはその後の事が注釈として次の通り載せられています。
 
翌年夏秀吉公より佐々成政を召されらる。成政尼ケ崎迄上り太閤の気色をうかがふ。太閤加藤清正を検使とし成政の罪をのべて切腹被仰付(おおせつけらる)、天正十一(十六が正解、1588年)年五月十四日成政自殺す。年五十一なり。成政は尾州春日井の人なり。信長公に仕て戦功あり。越中の守護となる。信長公薨去の後信雄に順(したが)つて秀吉と戦ふ。信雄和睦の後秀吉公にくみ給ひしが、肥後の国政も無道にして乱れしかば、終いに殺害せらる。

 
その後、肥後北部の二十五万石は加藤清正に、南部の二十四万石は小西行長に与えられます。