本能寺の変は1582年6月2日の午前4時頃、明智光秀の軍が本能寺を取り囲んで始まります。
この事変の報を受けた信長の臣・長谷川宗仁は書状を配下の者に託し、備中に出張中の秀吉への飛脚を命じます。
この飛脚が京都を発したのが早くても2日の午前6時頃の事だと思われます。飛脚は織田家の一大事と走りに走り、貝原益軒の黒田家譜によると4日午前0時頃に備中高松城を包囲する秀吉の陣に到着します。
Googleマップで調べたところ、京都と高松城間の距離は直線でも180㎞。道のりで220㎞。黒田家譜には70余里(280㎞以上)と書かれています。
この距離をこの飛脚は1日と18時間で走破したことになります。距離220㎞で計算しても時速5.2㎞、大人だと1時間4㎞が標準ですので、早足の状態で42時間休息なしで歩き続けた事になります。その後の秀吉の中国大返しが約7日間で行われたのですが、単独行動とは言え飛脚の移動時間はこの4倍の速さになります。おそらくは騎乗の事とは思われますが、馬も生き物、休憩もなく食事もなくては思い通りには走ってはくれなかった事と思われます。
この様にこの飛脚は主人から命ぜられた大仕事を苦労の末に他の誰よりも早くに達成したのですが、その後なぜか「幾程なく病死してけり。」と黒田家譜には綴られています。