囲師必闕

1577年11月、秀吉の軍は福原主膳の守る佐用城を攻めます。孝高は夜間に佐用城の三方を囲み、あと一方を空けて攻撃します。城では激しい戦いとなりますが、最終的に城は落ち福原主膳は囲みのない西の裏山へ脱出します。しかし、その先に待ち伏せした孝高の配下の者に討ち取られます。これが貝原益軒の『黒田家譜』に書かれる佐用城攻めになります。
 
益軒はこの攻城の戦法を「是(これ)孫子が所謂(いわゆる)囲師必闕と云う軍法なり」と書いています。「囲師必闕(いしひっけつ)」とは兵法書・孫子の「囲師遺闕(いしいけつ)」という言葉の言い換えで「囲まれた敵には必ず逃げ道を残す事」という意味になります。簡単に言えば「窮鼠に噛まれる様な状況に陥ってはいけない」という言葉になります。
孝高は山崎の戦いで敗れ勝龍寺城に籠った明智軍を攻める時にもこの「囲師必闕」を秀吉に進言しています。
 


「囲師必闕」は、荻生徂徠の『孫子国字解』という『孫子』の解説書にある言葉で、『孫子』そのものに書かれている言葉ではありません。益軒も徂徠も「囲師必闕」という言葉を孫子の言葉として扱っているので、益軒が『孫子国字解』を参照したのか、もしくはその逆か、または益軒と徂徠が共に参照した別の孫子本が存在した可能性も考えられます。