戦国時代には筑前の西部一帯を支配した原田氏ですが、『黒田家譜』にはその先祖ことが書かれています。
原田の先祖は、後漢の霊帝の孫、阿智王、始て日本に来り、播州大蔵谷に着岸す。其中に、日本にて、天子より、大蔵朝臣の姓を賜り、其十四世の孫春實、朱雀院天慶三年、藤原純友をうちし勲功に依て、筑前の國主となり、筑前國に住す。その後、子孫世々相續して信種に至る。御笠郡原田の里に住せし故、原田を姓とす。其後、七代は、那珂郡、岩戸の御所の原に住しける。其子孫、原田太夫種直、太宰少弐となりし故、岩戸の少卿と號す。少卿は少弐の唐名なり。種直、平家に興せし科により、久しく鎌倉に禁獄せらしが、ゆるされて筑前に下り、はじめて高祖の城に住す。其後は、代々、高祖を居城とす。
簡単に説明するならば、大蔵春実が藤原純友の乱を平定した後、筑前の国主となり、その子孫が現在の筑紫野市原田に住し原田氏を名乗ります。その後、現在の那珂川市の岩戸と呼ばれる地に移りますが、その子孫の原田種直は源平合戦で平家を支援したため、戦後に鎌倉に送られ監禁されます。後に許され筑前に戻り現在の糸島市高祖に領地を与えられ、以後戦国時代までこの地を領します。
筑紫野市の原田は「はるだ」と読み、大蔵系原田氏は「はらだ」ではなく「はるだ」が正式な読み方だと思われます。福岡県以外にも原田という名字の方は多いと思いますが、読みが「はるだ」の方はもしかしたら大蔵春実の子孫なのかもしれません。