貝原益軒の『筑前続風土記』 巻之十三 鞍手郡 の項には、山口村の圓通院建立の由来が書かれています。
天文廿年(1551年)、大内義隆は、その臣、陶晴賢の謀反にあい自刃します。この時、宗像大宮司氏男(うじお)は大内義隆に従っており、この謀反で討死します。
陶晴賢は姪の生んだ宗像氏貞(父・正氏)を大宮司に地位を就けるため、宗像に送り込みます。これに宗像の家人たちは同意せず、宗像氏続(うじつぐ)の子で三歳の千代松(氏男の異母弟)を後継とします。晴賢はこれに怒り宗像氏続と千代松を亡き者にすることを命じます。これを聞いた氏続は彦山(英彦山)へ逃れますが、氏貞は配下の者を少数で彦山に行かせ氏続を暗殺させます。
そして、益軒は千代松の最後を次の通り書いています。
千代松が母は氏続が妾なり、その名を辨(べん)という。千代松をいだきて、鞍手郡沼口にかくれ居りけるが、討手の来るよしをききて、落行けるを、山口村にて追付、千代松をわたすべきよし、しきりににいえども、抱きてはなさず。母子共に殺しける。そのかばねをここに葬る。
後年に氏貞の内室は祟りを怖れ、社を建て千代松の霊を弔います。
今も山口村の枝村畑というところの、山ふかき林の中に社あり。また山口村に寺を立て、氏続千代松父子の菩提をとむらう。その寺を圓通院と号す。
鞍手郡沼口は現在の九州道若宮インター辺りの事になります。そして山口はその西側に隣接する地になります。