『筑前国続風土記』の住吉社の項には次の通り書かれています。
文明12年(1480年)宗祇法師、筑紫に下りける時かける紀行(筑紫道記)に、楼門半(なかば)やぶれて社壇(しゃだん・社殿)も全(まった)からず。いかにと問へば、この十年余りの乱故(戦乱)とかたるも悲しとある。
宗祇法師は『筑紫道記』に、住吉神社の壊れた楼門や破損した社殿を目の当たりにし、案内人に事情を問うと、ここ十数年の戦乱によるものですとの答えを受け、虚しさを感じたと書き残している。
「十年余りの乱故」とは応仁の乱の混乱で起こった大内氏と少弐氏の筑前争奪戦のことになります。
そして宗祇は『筑紫道記』に一夜松の事も書いています。
本社の艮(うしとら・北東の方角)の方に一夜の松とてあり・・・社中を廻り見れば、大松の松井垣して、故ありと見ゆるあり。とへばこの松、本は御社にかたぶきて造営のさはりなり、行末もあやうければ切ぬべしとて、勧進の僧の定めけるに、二三日の間にすこしづつ起なほりてすぐになりぬ。それよりこの井垣などはしけるよし答ふ。その年は永享十一のとしいえり。」
本殿の北東の方へ回ってみれば、囲いがされた大きな松の木があり、事情がありそうなので、訪ねてみると「元々この松は、社殿に傾いて、造営する際の邪魔になるので、伐採する事に決まりましたが、二三日の間に少しずつ直ってまっすぐになりました。それから生け垣などをするようになりました。」との答え。この出来事は永享十一年(1439年)のことと言われる。
今の木はその種の生(うまれ)出せしにや、一夜の松いづれといふ事をしる人なかりしに、天和年中御社(みやしろ)修造ありし時、今の一夜松、軒にさわりて危しとて、奉行人等切るべきよし定めしに、一両日のほどに半より上のかた真っすぐに立なをりぬ。
現在の木々は、一夜松の種より成長したものだが、元の一夜松がどの木か知る人はいなかった。天和年中(元年は1681年)に御社の修造があった時、今の一夜松が軒に触って危ないため奉行人等は伐採の決定をしますが、一両日で上の部分がまっすぐに立ち直ってしまった。
さては宗祇がしるし置ける松なるべしと、人みなうやまひて、新に井垣などしけり。松は皆我神體(しんたい)なりと託し玉ふといへば、いづれの松を切らんとするとも、立なをり侍るべきにやとなん、神官等はいえり。
もしや宗祇が書いた一夜松はこの松に違いないと、人々は敬って、新しく生け垣などをします。皆はこれを我が御神体であると考え、その後、どの松の木を切ろうとする時も、立ち直るか様子を見るべきではなかろうかと神官等は言い合ったとのことである。
宗祇は『筑紫道記』に乱世の中に正道の世を願い次の句を載せています。
神垣の松にぞたのむ言の葉も すぐなる道に立やなをると
宗祇・・・室町時代の連歌師。連歌とは上の句と下の句を別々に人が読みあう歌で宗祇も日本各地で連歌の会に招待されたようです。この事から放浪の詩人とも呼ばれます。