米一石塔

福岡市の箱崎には米一丸地蔵尊があり、そこには米一という人物の供養の石塔が建っています。
貝原益軒の『筑前國続風土記』(巻之十八 糟屋郡 表)にはこの石塔の由来が次の通り書かれています。
 
米一は駿河国(静岡県)の木島長者の子として生まれ、成人して若狭国(福井県南部)の湯川長者の娘を娶ります。
「その妻容色世にすぐれたり」と益軒は記しています。
 
木島長者は京の一条何某の家人であったため、米一も一条某に仕えていたと思われます。
一条某は米一の妻を奪い取ろうと策を巡らし、米一を呼んで使いを命じます。
 
「吾かって筑後の柳川を流浪せし時、筑後国三池の傅太といえる鍛冶の作りし二尺七寸の太刀を、博多の某に質物に遣(のこ)し置たり。汝急ぎ下りてその責(おひめ、負債の事)をつぐのひ、刀を取来るべしとて、金子を多く渡さる。」
そして、博多の盗賊には次の通り依頼します。
「米一下らば速やかに殺すべし」
 
博多に着いた米一は大金と引き換えに太刀を受け取り帰ろうとしますが、盗賊たちは米一に酒や馳走で饗応し、村雲という美女を妻(めあ)わし、留めます。これに米一は心を動かし、逗留してしまします。
この頃の博多の奉行は茨彦左衛門というもので、盗賊とつながっており、蹴鞠や連歌の席を催し、謀略で米一を害しようとしますが果たせず。しまいには、宿所を取り囲み討ち取ろうとします。
 
「米一が従者四十五人、屈強の者共にて、大勢をわつて出、戦ひけり。されども衆寡敵しがたければ、石堂口より箱崎まで追討にせしほどに、家人悉(ことごと)く討れぬ。米一も痛手を負ぬれば叶(かな)いがたく、箱崎の六本松にて自害せり。則(すなわち)そこに葬る。」
 
この事を知った故郷の妻は、密かに逃げ出して博多に下り、悲しみの余り米一の墓前で自害して果てます。
「その年十六歳なりしとかや。村雲も是を聞て自害しぬ。是(これ)は十七なりしとぞ。博多の諸人是をあはれみ、討死の所に石塔を立ける。」
 
益軒はこの出来事を平安時代末期の事としていますが、最後に「この話は乱雑なところが多くて信じがたいが、市井の人々の口蹟に残り、その刀は博多に伝わっている。このような事情もあるので、言い伝えを聞いたままに、ここに記載する。」と米一石塔の話を終わらせています。