此れ坐忘と謂う

肢體(したい)を墮(おと)し、聰明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同ず、此(こ)れ坐忘と謂(い)う。
 
身体を離れ、聡明さを棄て、形に囚われる事なく、知識を忘れれば、道に通じる。これを坐忘という。
 

荘子

 
この言葉は荘子のものではなく、儒家である孔子の高弟・顔回の言葉になります。その孔子と顔回の問答を超簡単に訳してみました。
 
顔回は「私は『仁義』を忘れることによって成長できました」と孔子に伝えます。これに孔子は答えて「それはいい事だ。しかしまだ足らないね」。他日、顔回は「今度は『礼楽(れいがく)』を忘れることによって成長できました」と伝えます。また孔子は答えて「それはいい事だ。しかしまだ足らないね」。また他日、顔回が訪れ「私は『坐忘』することができました」と伝えます。孔子は「それはどういう事かね?」と問いますが、それに対する顔回の答えが冒頭の言葉になります。
これに対し孔子は「そうなれば自由自在だね、あなたは賢いよ。私も後に続きたいものだ」と感心したということです。
 


大通・・・老荘でいう『道』の事だと思われます。
礼楽・・・礼儀作法と儀式に奏でられる音楽。儀礼。