女大学と女大学評論 その③

『女大学』
嫉妬の心努々(ゆめゆめ)発(おこ)すべからず。男淫乱なれば諫(いさむ)べし、怒恨べからず。妬甚(はなはだ)しければその気色(けしき)言葉も恐しく、冷(さま)して却(かえっ)て夫に疎(うとま)れ見限らるる物なり、若し夫、不義過あらば我色を和(やわ)らげ声を雅(やわらか)にして諫べし、諫を聴ずして怒らば先づ暫(しばら)く止めて後に夫の心、和ぎたる時、また諫べし必ず気色を暴(あらく)し声をいららげて夫に逆(さから)い叛(そむく)ことなかれ。
 
『女大学評論』
「この一章は専(もっぱ)ら嫉妬心を警(いまし)むるの趣意なれば我輩は先づその嫉妬なる文字の字義を明らかにせんに凡(おおよ)そ他人の為す所にして我身の利害に関係なきことを羨(うらや)み怨み憎らしく思い甚(はなはだ)しきは根もなきことに立腹して他の不幸を祈り他を害せんとす。これを嫉妬と言う。」
福沢先生は嫉妬心をこのように定義し、隣家の繁栄を妬むような嫉妬は決して良くなく、堅く戒めるところだと書いています。しかし、『女大学』に書かれる嫉妬心の否定は結婚の契約を無視するもので、虐待、侮辱に値する。被害者の婦人が正々堂々と議論を以ってその罪を責めるのは権利であると付け加えています。

(以後は長くなるため、原文を挙げながら簡単に記載します。)

「(『女大学』では)婦人が不品行を犯せば、その罪は直ちに放逐と宣告しながら、今ここには打って替わりて男子が同一様の罪を犯すときは婦人はこれを怒りもせず恨みもせず気色言葉を雅にして却(かえ)ってその犯罪者に見限られぬように注意せよと言うその偏波不公平は驚くに堪えたり」とし、男尊女卑の悪習を非難し意識の改革を促しています。そして最後に次の通り書いています。
「(維新の)断行しながら人事には断行すべからずか、我輩はその理由を見るに苦しむものなり、況(ま)してその人事に就いては既に法典を発行して男女婚姻等の秩序は親族編にも明文あり、ただこの上は女子社会の奮発勉強と文明学士の応援とを以って反正(はんせい)の道に進むごときのみ事は新発明新工夫にあらず、成功の時期、正に熟すものなり」

 


人事には断行すべからず・・・維新は断行したものの、封建的な考え方からの脱却が断行できていないという意味?
偏波・・・偏りのある事
親族編にも明文・・・明治31年に発布された法律の親族編に男女の不平等の条項があったと思われます
反正・・・正しい方向に修正する。道を正す。
 
『和俗童子訓 巻之五』にはこの『女大学』の文章と同様の記述があるようです。
 
ここでの『女大学評論』は長文になるため、概要を記載しています。ただ、重要と思われる部分は原文を記載しています。