『女大学』
言葉を慎みて多すべからず、仮にも人を謗(そし)り偽を言べからず。人の謗りを聞ことあらば心に納(おさめ)て人に伝え語べからず。謗を言伝ふるより親類とも間(なか)悪敷(あしく)なり家の内(うち)治らず。
『女大学評論』
「言語を慎みて多くす可(べか)からず」とは寡黙を守れとの意味である。諺に「言葉多きは科少なし」といい、西洋にも「空樽を叩けば声髙し」との言葉がある。愚者の多言はもとより好まれるものではなく、まして婦人は静にして奥ゆかしいことは頼もしいことである。いわゆる「おてんば」は我輩も最も賤しむ所ではある。ただ一概に寡黙を守れとのみ教えるのは、弊害がないことはない。年頃に達した婦人が人に接して用談は別として日頃の挨拶にまでハッキリしない低い声を発すれば、相手を困惑させるだけである。医師に対しても自分の病状を明言しなければ医者も当惑してしまうに違いない。人生に必要な弁舌を枯らしては実用に差し支えてしまうのではないか、我輩もあえて多弁を好む訳ではないが、いたずらに婦人の口を禁じて良いとは思えない。むかし大名に仕える婦人の手紙や立ち振る舞いも立派なのは知られている通りである。現在の女子の教育は昔の御殿風ではいけないが、様々な稽古はもちろん、文明日進の方針で物理、地理、歴史など広範囲に学び、家庭の事情が許す限り、外国の語学も勉強し、一通りは内外の事情に通じ、学者の話を理解し、知識の深浅は別としてその意味を語れるようになり、他人からの嘲りを避ける位の心掛けが必要である。このように『女大学』の全編にかって一語も女子の知育の必要性を説くことがないのは遺憾である。また「人を謗り偽りを言ふ可からず人の謗を伝へ語る可からず」云々はもとより当然なことである。特に婦人に限らず男子に向かっても戒めるべきことなので評論を略す。
『和俗童子訓 巻之五』にはこの『女大学』の文章と同様の記述があるようです。
『女大学評論』は理解しやすいように現代語訳していますので、原文と多少のニュアンス違いがあるかもしれません。また論評は長くなるため大きく省き簡略化した部分があります。