益軒は筑前国続風土記の冒頭で、筑紫について言及しています。
「此國を筑紫と名付し事、古は筑前筑後一国にして、是を筑紫といへり。故に日本紀等の古書に、筑紫といへるは、多くは筑前筑後をさせり。又九國をすべて筑紫と称し、或九州の内筑前筑後の外をも、筑紫といひし事も間これあり。筑前はいにしへ官府のありし國にて、九州二島をすべてまつりごちし所なれば、其國の名をとりて、九國をもすべて筑紫といへり。たとへば大和に帝都ありし故、日本をすべてやまとと称せしが如し。」
筑前国続風土記の記述どおり、日本書紀では「筑紫」の定義が結構曖昧のようです。
大宰府周辺のことであったり、九州北部であったり、九州全体であったりと・・・
大まか筑前は筑紫に間違いないと思われますが、これに豊前、豊後、肥前、筑後が含まれたりします。
また九州全体を筑紫とする記述も確かにあるようです。
「筑紫」とは何ぞやとの回答は「定義できないもの」なのかもしれません。この言葉を使っていた人々が正確な「筑紫」を理解していなかったのですから・・・
地理に詳しい地元の人に「筑紫とは?」と質問しても、帰ってくるのは回答は
「筑紫?そりゃ西鉄電車に筑紫駅があろうが、あの辺りたい」といったものに違いありません。