簡明なるを要して煩悉(はんしつ)なるを要せず。平易なるを要して艱奥(かんおう)なるを要せず。只だ須らく聴者をして大意の分暁(ぶんぎょう)するを得しむれば可なり。
簡単な事が必要で、細かく説明する事は不要である。解かり易いことが必要で、難しい事を奥深くまで教える必要はない。ただ聴講者に大意を理解させれば良いのである。
佐藤一斎/言志録
佐藤一斎は、経(経書・儒教の基本となる書物の総称)を教える要点をこの様に語っています。そして続けて次のような事を書いています。
深い意味は言葉で簡単に説明できるものではない。ただ聴講者の理解し難い所を察して、余談や戒めの言葉を聞かせて、悟らせ導くのもよい事である。
弁舌を操り、縦横無尽の弁論で聴講者を大笑いさせ、疲れを忘れさせるようなやり方は、経を教えるところの本意ではない。
なるほどと思わずにはいられません。
ただ、縦横無尽の弁論で人を大笑いさせるやり方も、聴講者に興味を持たせるための重要な手立ての一つだと、下賤かもしれませんが私はそう考えます。
煩悉・・・細かく煩雑で解かりづらい事
艱奥・・・奥が深く解かりづらい事
分暁・・・明確にする