松壽丸危うし

孝高は信長に面会した翌々年(1577)の秋に、再び安土の信長の元を訪れます。そして同道した嫡男・松壽丸(長政)を人質として差し出します。信長はこれを長浜の秀吉へ預けます。
ところがその翌年、摂津有岡城主・荒木村重が信長に謀反を起こします。孝高は村重を説得するため有岡城に乗り込みますが、そこで捕らえられ土牢に押し込められます。
信長は有岡城から戻らない孝高が村重と共に謀反したと疑い人質の松壽丸を殺害するように竹中半兵衛に命じます。
『黒田家譜』にはその時の事が次の通り書かれています。
 
官兵衛も荒木に同心し、城中に楯籠りて帰らざると思召、大に怒り給ひて、官兵衛の人質松壽を殺すべき由、竹中半兵衛重治に仰付られけるなり
 
そして著者の益軒はこう続けています。
 
半兵衛は知恵深き人成しが、信長公を諫めて曰、官兵衛既に味方に属し、忠義の志不浅(あさからず)候。其上知恵ある者にて候間、強き味方を捨、弱き敵に興し申べきいはれなし。人質を御殺候はば、官兵衛又は其父美濃守恨をふくみ、御敵に成候はば、中国御退治もはか行申間敷候間、人質御殺候事悪かりなんと再三申されしかども、信長公御憤慨深くして、諫を用ひ給はず。半兵衛力及ばず、松壽を殺由信長公へ申上、ひそかに松壽を、わが領地美濃国不破郡岩手の奥菩提と云居城に遣し隠置て、最懇にもてなしける。