勝龍寺城攻め

山崎の戦いに敗れた明智軍は勝龍寺城に籠ります。大軍となった秀吉の軍は四方から城に攻めかけますが、この状況に孝高は秀吉に提案します。

「明智一命を捨て防がんと存じ候も、つき従う士卒は皆、大軍に囲まれ、数千のかがり火に気を屈しなば、必ず逃げ去らんと思う心出来候べし。今夜一方の攻口をあけて候はば、士卒の大半落失申すべし。然らば明智は今夜城をあけて落ち行くか、もしそのまま籠城し候とも、敵の人数減じ候はば、明日の合戦味方に勝利を得ん事たやすかるべく候。」

秀吉はこの策を採り北側の囲みを解くと、その夜に大勢の士卒が続々と北へと落ちて行きます。光秀もこのままでは城を守り切れぬと数人の従者と共に城を落ちますが、本拠地の坂本城に向かう途中に小栗栖(おぐりす)で土民の槍に突かれ討ち取られます。

「主君を殺して天下を奪はんとせしかども、天罰なじかはのがるべき(決して逃れられない)。 ・・・ 我に親しき人、皆そむきて、信長公を今月二日に殺し奉りし後、わづか十一日を経て、同月十四日滅びける。」

貝原益軒は儒学者だったためか、このように厳しい言葉で光秀を弾劾しています。