摂津播磨離反す

そなたと我等の間柄は他の者たちより誹りを受けるべきものではない。また何事もそなたに任せても、他の者がどうこうの言うべきことでもない。しかし既にその様な陰口もあるようだ。我等を憎むものはそなたまで憎むことだろう。よく心得て用心するように
 
これは秀吉が孝高にあてた一通の手紙の概要です。これは一旦、織田家に属した播磨勢の中に不満分子が現れていた事を表しているのかもしれません。実際、事は秀吉と孝高の間で進められ、播磨の武家は蚊帳の外に置かれる不安を感じていたのかもしれません。
そんな中、摂津伊丹の荒木村重が毛利に寝返り信長へ反旗を翻します。村重は孝高の主家・小寺政職(こでらまさとも)にも呼びかけ毛利側に引き入れます。信長に人質として嫡男・松壽丸を預ける孝高は主家の反旗に驚き、政職を説得しようと試みますが、逆に小寺家・重臣たちの孝高を誅す陰謀の情報が入ります。孝高は一旦、姫路に戻り父・職隆(ともたか)にこの事を報告し、説得のため再び政職の元に戻ろうとしますが、黒田家の家老たちは小寺家の御着城に戻るのは危険が大きいので、病を理由にこの姫路城に籠るべきと主張します。
これに孝高は次の通り語ります。
 
病と称せば必虚病なりとおもふべし。小寺殿に叛き合戦に及ばん事不義の至なり。当家の運儘(つ)きずば我身に災難なかるべし。若(もし)小寺殿にうたがはれ討るるとも、我不義にあらず。運命の儘る所なれば、なげくべき道に非ず。元より武門に生まれては、義にあたりて命を惜むべきにあらず
 
職隆も孝高の意見に同意し覚悟の意を表します。
孝高が覚悟尤(もっと)なり。一筋に信長公を主君と仰ぎ、又小寺殿を旗頭と頼む上は、彌(いよいよ)信長公に二心なく、又小寺殿に背かざるが、只今当然の義理なり。かく忠義を盡しても、若(もし)ひが事を以て殺害せられば、わが家の滅亡是即天命の至る所と思ふべし。とくとく御着に行て、常の如く小寺殿併(あわせ)諸臣をもあひしらひ、成るべき程は難をのがるべし。若其難をのがれ難くば、其時切腹すべし
 
孝高畏(かしこ)まり、承候(うけたまわりそうろう)とて出立られけるが、父子恩愛の別是や限なるらんと、互に泪ぐみ給ふ。