『海舟座談』の著者・巌本善治氏が海舟宅に出入りしたのは、明治20年8月から、海舟に最後に面談した明治32年1月14日までの約11年を超える期間になります。しかし、『海舟座談』には明治28年7月~明治32年1月までの約3ヶ年の座談が記載されるのみとなっています。
『新訂海舟座談』(岩波文庫)の冒頭部の「陳言」で、巌本氏はこの事情を明かしています。
先生高談の隻語片言悉皆筆に記し、筐底に珍蔵す。その二十八年以前に係るものは、不幸、類焼に罹り、一切を失うと共に、またこれをしも焼けり。その中、ただ公にしたるものと、記憶するものと留存するあるのみ。
先生のおっしゃられたチットした言葉や、片言でしゃべられ事などことごとく記し、箱に大事にしまっていたが、明治二十八年以前の書類は、不幸にも火事で学校の校舎などを失うとともに、焼失してしまった。その中、それまでに出版したものと、記憶に残るものが残るのみである。
この「類焼」とは自らが校長を務めた明治女学校の火災の事で、明治29年2月に発生しています。この火災で海舟の約8年間の座談メモが消え去った事になるのです。ただ一つ明治28年7月の記事が掲載されているのは、「ただ公にしたるもの」が示すとおり、火災前に『日本宗教』に公表されたていたため記事の内容が残ったという事のようです。
この約8年間の座談メモにはどんな言葉が書かれていたのか知る術がないのが残念でなりません。