秀吉は鹿児島の40㎞ほど北西の泰平寺に入り、先陣の16万の兵は既に鹿児島に迫ります。これに島津義久は降伏を決断し伊集院左衛門(忠棟?)を孝高の元へ使者として送ります。この報は秀長を通して秀吉に伝えられ、秀吉はこの降伏を受け入れます。
髪をそり、墨の衣を着して、名を隆白と号し、磔木(たくぼく)を金みがきにして真先に持せ、太平寺(泰平寺)に行て秀吉公の陣へ降参し、その罪を謝す。若(もし)御憤ふかく、御免有まじく候はば、此磔木にかかり申べき為。持せ参て候と申上ける。
『黒田家譜』ではその時の様子をこの様に伝えています。
秀吉は義久の言葉に感じ入り、その罪を許し、逆に懇意に対応したという事です。