織田信長が斎藤氏の稲葉山城を攻略し天下布武の印を使い出した頃、筑前では毛利氏の援助を受けた秋月氏が大友氏に対し抵抗の狼煙を挙げます。これに大友宗麟は2万の軍を派遣し秋月氏の本拠地・古処山城を攻めますが、そこに毛利氏の九州上陸の報が届いたため一旦、筑後・高良山へ軍を撤退するよう指示を出します。
大友の軍は夜半に撤退を開始しますが、そこへ秋月の兵4千が背後から突撃します。意表を突かれた大友の軍は大混乱を起こし散々に打ち破られます。この戦いが「休松の戦い」といわれるものです。
写真はその戦いが起こった辺りを撮影したものです。左手(北)5㎞先に古処山の麓の秋月、右手(南)の十数キロ先に高良山があります。大混乱を起こした大友の兵は夜間ということもあり方向感覚を失い西に東に南へとバラバラに崩れ去り、豊後に逃げ帰ろうとする者は写真の中央の山の裾野を周り、日田方面に向かいますが、山の裏手の三奈木まで追われたようで、そこにはその時の首塚が残っていると貝原益軒は「筑前続風土記」に書き残しています。