孝高は毛利に寝返った小寺政職を再び説得するため御着城へ向かいます。御着では孝高が姫路城に立て籠もるものと予想していましたが、少数の供を連れて来城した孝高に安心します。また姫路の城では能の催しが開かれているという情報が入り御着の人々の疑いが消え去ります。しかし御着の評議では、孝高は再度、政職の説得を行うものの、信長を離れ毛利に付く事が一決されます。
我今度信長に叛き、毛利に属せんと思ふも、元来我等荒木と一味にて、彼俄(にわか)に志を變(へん)じて我をすすめし故なり。荒木元の如く再信長へ心を属せば、我も信長へ属すべし。
政職は孝高にこのように告げ、摂津伊丹の荒木村重を説得する事を促します。孝高は政職の意図が理解できませんでしたが、その他の手立てが見つからず村重の元へ向かいます。
十月下旬伊丹へ行き、町より城内へ使を遣し、事の由を云入給ひければ、荒木孝高を城内へ招き入れ、力者をあまたかくし置、押へて生捕にして、其儘城中に禁獄し置ける。
これで黒田家は松壽丸(のちの長政)は信長に、孝高は毛利方の荒木村重に人質を取られる状況に陥ります。黒田家では評定が開かれ家臣たちは職隆(孝高の父)に問いかけます。
官兵衛(孝高)殿を御たすけ、松壽殿を御捨候て、敵に御随ひ候はんか。又松壽殿を御助け官兵衛殿を御捨候て、いよいよ信長公へ御随ひ可有候や。御子と御孫の間何れを御捨候はんや。
これに職隆はこのように答えています。
官兵衛を捨て彌(いよいよ)信長公に随ふべし。いかんとなれば、此方より思ひ定めて、人質に参らせ置かれたれば、信長公に随ふは、我本意なり。官兵衛は荒木を諫めん為に行たるを、理不盡に荒木が留置事、是荒木が不義、是非に及ばざる所なり。然れば荒木に従ひて毛利家に興せん事、我本意にあらず。官兵衛若(もし)荒木が為に害せられば、不慮の天災と思ふべし。なんぞ官兵衛を助んため、我本意に背き、敵に従んや
一族家臣はみなこの言葉に伏し、誓紙に署名し職隆の考えの元に心を一つにすることを誓います。