勝と伊藤博文

岩波文庫『新訂海舟座談』の付録には勝の使用人・森田米子女史の回顧録が載せられています。


伊藤さんは、始めチョイチョイお出でしたが、何でしたか、中ゴロから、フイと疎遠におなりでした。それで、伊藤サンのお出のうちは、枢密へのお出も少ないというようなワケで、「己(おれ)の事を、ホラフキだと言うソウなが、アッチの方がよほどホラフキだ」といってらっしゃいました。

維新を生き残った超大物の中には「ホラフキ」の先生が多かったのかもしれません。


森田米子・・・勝家の使用人。「五つから上がりまして、十八までおりました。それからは。折々上がりました。」と回顧録の先頭に書かれています。複数いる使用人の中でも勝に近い立場の人だったようです。
枢密・・・枢密院。天皇の諮問機関でこの頃は、伊藤が議長、勝は顧問だったようです。勝が欠席の際に、伊藤が勝の陰口をいった事に対する応酬の一言のようです。