「大阪夏の陣」が終わり太平の世になって15年、益軒は福岡城内の官舎に生まれます。幼少期は飯塚で過しますが、その後 福岡に戻り19歳で二代藩主黒田忠之に使えることになります。しかし、何が起こったのか翌年には閉門、翌々年には浪人してしまいます。 6年後には父・貝原寛斎のとりなしで、忠之から光之へ代の替わった黒田藩へ復帰し、 藩内の政務、教育、家史の編纂などに携わります。 71歳で黒田藩の公務より引退し、執筆活動に専念します。「筑前國続風土記」はこの引退の前後に書かれ、 その他の主な著書も引退後に書かれたようです。
ところで益軒は若き頃より人並み外れた読書量を積んだようで、自身の著作自体にも参照した古書が数えられない程に登場します。 また益軒の著作からは「先入観」や「噂」のみに囚われず、自ら足を運び、自らの五感で感じ、 そして自らの力で考える事の重要性を説く姿勢が強く感じられます。 医者、教育者、施政提案者、鉱物学者、植物学者、動物学者、歴史学者、執筆者、哲学者と多彩な顔を持ち、 来日したドイツの医者・シーボルトから日本のアリストテレスと評されたその功績は、 この「並外れた読書量」と「客観性を追及する姿勢」が基本となっているに違いありません。
飯塚市「貝原益軒学習の碑」の案内板には次の通り記載されています。
【貝原益軒学習の碑】![]() 医学者・儒学者・本草学者であり、また学問の他に、教育や経済の分野でも功績を残しました。 主な著書に「養生訓」「大和本草」「慎思録」「大疑録」などがあり、 その膨大な著書は多く平易で流麗な和文で書かれたので、よく大衆の間に普及しました。 飯塚市
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福岡市中央区荒戸「貝原益軒 屋敷跡」の案内板には次の通り記載されています。
【貝原益軒 屋敷跡】![]() 益軒と東軒夫人の夫婦の墓は、銅像とともに金龍寺(今川二丁目)にあります。 中央区役所 企画課
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福岡市中央区今川「金龍寺」の案内板には次の通り記載されています。
【金龍寺】![]() 福岡市
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朝倉市秋月「貝原東軒夫人誕生地の碑」の案内板には次の通り記載されています。
【貝原東軒夫人誕生地】![]()
貝原東軒(貝原益軒の夫人)
秋月中小路の武家で生まれ、名を江崎初、号を東軒といい16歳で益軒と結婚、才覚素晴らしく益軒の多くの著書なども夫人の代筆ともいわれている。 |
福岡市西区女原「県指定史跡 宮崎安貞書斎」の案内板には次の通り記載されています。
【県指定史跡 宮崎安貞書斎】![]()
宮崎安貞は、元和9年(1623年)芸州広島で生まれ、25歳の時、福岡藩主黒田忠之につかえました。まもなくその職をやめ、九州・山陽・近畿の諸国をめぐり、草木や作物の植え付けなど農事の研究を積み重ねました。帰国すると、現在の西区女原に住み、一人の農民として郷土の農業改善、生活の向上に尽くしました。現在も「宮崎開き」の地名が残るほど、積極的に開墾事業も行いました。
また、中国の農業書や諸国での体験をもとに、元禄9年(1696年)農業全書(のうぎょうぜんしょ)(全10巻)を著しました。水戸光圀も絶賛したこの書は、わが国初の農書として名高く、多くの人に読みつがれてきました。 女原に住むこと40年、元禄10年(1697年)に、75歳で亡くなりました。墓(史跡)は現在地より、南側300mのところにあります。 この書斎は、一部手を加えられていますが、安貞の書斎として当時をしのぶことができます。右側にある顕彰碑は、明治21年、宮崎安貞翁を顕彰するため徳永に建てられたものを昭和62年3月宮崎安貞顕彰会の人々の尽力により移築されたものです。 平成13年3月 西区役所 |
-益軒先生に思う事-
【読書量について】
益軒の著作には参照した古書の名が多数登場します。これは益軒が相当な量の読書をこなした証なのかもしれません。 またこれだけの古書の名が次から次に出てくるのは、ただならぬ記憶力の高さか、 もしくは「読書目録速見表」的なものを個人的に作成所持し執筆の際に座右に置いていたのかもしれません。
【簡単で読みやすい文章】
昔は男たるもの正式文書にかな文字を遣うべからずと言った風潮があったようで、 平安時代の『土佐日記』も紀貫之が女性に扮してかな文字日記を記載したものと、高校の古典の授業で教えられた記憶があります。 ただ手紙や歌には男性もかな文字を使用していたようなので、この知識が正しいのかは定かではありません。
江戸時代のかな文字文と漢文の使用頻度の詳細は解りませんが、 益軒の著作は、かな文字文章で書かれ理解しやすく、古文、漢文に通じていない人でも、 だいたいどんな主旨が書かれているのか把握できる内容になっています。 これは、自分の得た知識を階層を問わず、出来るだけ広く多くの人々に伝えたかったからなのでしょう。 どんな高度な理論でも、どんなに重要な情報でも、伝えるための文章が難しく理解しがたい内容であれば、 幅広く受け入れられることなく、歴史の彼方に消え去る可能性が高いことを益軒はよく解っていたに違いありません。 このサイトでも多くの話を参照、引用できたのは簡潔で解り易い文章を心がけてくれた先生の心遣いのお陰なのです。