宮本武蔵が関わった人々。
【新免無二(しんめんむに)】
(?~?)
武蔵の父で、十手の術家。足利義昭より、吉岡と勝負を命じられ、二勝一敗で勝利し、「日下(ひのもと)無双兵法術者」の称号を得ます。
【有馬喜兵衛(ありまきへい)】
(?~?)
新当流の兵法家で武蔵の最初の決闘相手になります。武蔵は13才でこの決闘に勝利したと『小倉碑文』には刻まれています。
【巌流(がんりゅう)】
(?~?)
「巌流島の戦い」で武蔵と戦った剣豪で、『二天記』では佐々木小次郎とされています。『小倉碑文』によると、巌流は真剣勝負を求めますが、武蔵自身は木刀を使用する事を伝えます。その後、長門と豊前の間にある船島で両雄は落ち合い、戦います。巌流は三尺の白刃を手に命を顧みず技を尽しますが、武蔵の電光よりも早い木刀の一撃についに斃れます。以来、人々は巌流を偲んで船島の事を巌流島と呼ぶようになったと言います。
【夢想権之助(むそうごんのすけ)】
(?~?)
関八州や奥州で敵する剣術家が見当たらなかったため、播州明石に在する宮本武蔵の元を来訪し勝負を挑みます。しかし二尺(約60cm)程の割木で眉間を打たれ破れます。力不足を悟った権之助は各地で修行を続けたどり着いた筑前・宝満山で修行中に開眼し「神道夢想流杖術」を開きます。現在、宝満山麓に鎮座する竈門神社の境内には夢想権之助神社があり、「神道夢想流杖術」の開祖はそこに祭られています。そして因縁の武蔵と対決は最終的に権之助が制したという言い伝えも残っているようです。
【宮本伊織(みやもといおり)】
(1612年~1678年)
武蔵の養子で、武蔵の推挙で明石・小笠原藩に出仕しています。1632年、小笠原家の移封に付き従い小倉に移ります。そして武蔵の死後の9年目の1654年に小倉・手向山に武蔵の顕彰碑『小倉碑文』を建立しています。
【寺尾孫丞(てらおまごのじょう)】
(?~?)
宮本武蔵の弟子で、武蔵より『五輪書』、『独行道』を与えられます。
【豊田景英(とよだかげひで)】
(?~?)
宮本武蔵の伝記『二天記』を記した二天一流の師範。現在の武蔵のイメージはこの『二天記』が元となっているという事です。