秀吉の手紙

信長より中国の毛利攻めの命を受けた秀吉は姫路に入りますが、これを出迎えた孝高は士卒を町家に、秀吉は一旦、私宅の二の丸へ迎え、本丸の掃除が終わると秀吉をこちらへ案内します。また城下の屋敷を目録にし、秀吉の家人へ届けます。
これに感心した秀吉は孝高に自筆による感謝の手紙を送ります。
 
「内々の御状うけ給候。いまにはじめざると申ながら、御懇のだん、ぜひにはおよばず候。其方のぎは、我等おととの小一郎め、どぶぜんに心やすく存候間、なに事をみなみな申とも、其方ぢきだんをもつて、せじ御さばきあるべく候。此國においては、せじよからば、御両人の御ちさうのやうに申なき候まま、其方も御ゆだんとてはいかが候間、御たいくつなく、せじ御心がけにて御ちさうあるべく候。御状の趣一々心ゑ存じ候。
七月二十三日           ちくぜん
小くわん参る  御返事」

御状(屋敷の目録)承りました。今に始まるお付き合いではありませんが、お心遣いには何も言う事はありません。あなたの事は弟の小一郎(後の豊臣秀長)同然に思っています。いろいろ言ってくる者があるかもしれませんが、あなたの判断ですべて対処してください。この国はすべてに於いてよい対応で、御両人(小寺政職と孝高のこと)のご尽力には言葉もありません。あなたも気楽な気持ちで、堅苦し思いをせずにご尽力ください。御状の内容は了解いたしました。
七月二十三日             筑前守 羽柴秀吉
小官(小寺官兵衛)よりの手紙へのご返事
 
そして秀吉は次の通り追伸を添えています。
「なおなお、其方と我等間がらのぎは、よそより人々さげすみもあるまじく候間、なに事をもそれにまかせ申候ても、よそよりのひたちあるまじく候。人もはやみおよび候と存候。我らにくみ申者は、其方までにくみ申事あるべく候。其心得候て、やうじんあるべく候。さいさいは、ねんごろにまうされず候間、ついでをもて、ねんごろに可申入(もうしいるべき)候。此文みへもすまじく候間、さげすみ候て御よみあるべく候。以上。」
尚々、あなたと我等の関係は、他の人々より非難があるべき事ではないし、すべてをあなたに任せても、他の者が口を出すべきことがあってはならないが、人はもうそう見ているかもしれません。我らを憎むものは、あなたまで憎むことでしょう。そう心得て用心するように、再度再度、詳しくは言いませんが、今回はついでを持って伝えておきます。この手紙は取るに足らないものですが、さげすみながらも読んでください。以上。
 
秀吉が心配したとおり、孝高の仕えた小寺政職は翌年には毛利方に寝返り、孝高自身は荒木村重の城で囚われの身となります。
 


この手紙について、益軒は「秀吉公初卑賎にして、文筆のまなびなかりしにや。其文のつたなくして、詞にあやまりある事如斯(かくのごとし)。然れ共此書に依りて、又秀吉公の英材なる事を見つべし。」と言っています。