天下また乱世となるべし

家康公関ケ原の一戦に若(もし)打負たまはば、天下又乱世となるべし。然らば我先九州を打したがへ、其勢を以(もち)、中国を平げて、上方へ攻上り、家康公秀忠公を助け、逆徒をほろぼし、天下を一統して、忠義を盡(つく)さんと思ひしなり。然れ共、家康公関ケ原の戦に、御運を開かせ給ひ、今天下太平になりしかば、我世において別につとめなし。
 
『黒田家譜』では、関ケ原の戦いの後、如水は長政にこのように語ったと書かれていますが、この益軒の記述には黒田藩の幕府に対する配慮が読み取れます。如水自身は、関ケ原の戦いが長引けば、九州の勢力をまとめて次に中国の勢力を巻き込み、もう一旗揚げる思惑があったようで、実際に秀吉の没後「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。」という手紙を残しています。しかし、長期化することが期待された関ケ原は一日にして終わり、如水の思惑は崩れさります。
 
今より後は、只いとまある身に成て、しづかに余年を楽しむべし。
 
徳川家の天下が確定すると如水は政治へ口出しすることもなく、しばらく博多に住み、その後に太宰府に移り寺社の人々を招き歌詠みなどをして余生を楽しんだと『黒田家譜』には書かれています。