女大学と女大学評論 その①

『女大学』
女は容姿よりも心の優れる方がよいとすべきである。心のない美女は起伏が激しく、目つきも鋭く見えて、人に怒り、言葉にも気配りのない口利きをし、進んで恨み妬み我を誇り、人を謗(そし)り笑って、勝(まさ)り顔なのは、女性の道として間違っている。女性はただ和やかに従って貞節な心を持ち、情け深いことが女性の品位である。
 
『女大学評論』
「女は容姿よりも心の優れる方がよいとすべきである」という言葉は、文章を正当化するために書かれた文章家の巧みな技としか思えない。以下、婦人の悪徳を並べてる箇条は悪徳と言う他ない。このような事は男にも言えることであり、「和やかに従って貞節な心を持ち、情け深いこと」の教訓はもっともな事ではあるが、これを婦人に一方的に押し付ける論は理解しがたい。妊娠中の摂生についての教ならばまだ分かるが、男女ともにやってはいけない事で、女ばかりを責めるのは可笑しなことではないか、犬が人に噛みつき、夜の番をしないのは不能な犬である。だからといって、この不能を牝犬一方に負わせるのは議論として成り立たない。思うに『女大学』の記者は有名な大先生ではあるが、すべて支那流の思想から立論するために、男尊女卑の癖から免れる事ができないのである。実際のところを言えば不徳を恐れず、動き回り、人を叱り倒し、人を虐待するのは男子の方に多いものであるが、それを看過して女子の不徳を咎(とが)めるのは、いわゆる儒教主義の偏頗論(へんぱろん)と言うしかない。
 


偏頗論・・偏った論
 
『和俗童子訓 巻之五』にはこの『女大学』の文章の元となった記述があるようです。

 
理解しやすいように現代語訳していますので、原文と多少のニュアンス違いがあるかもしれません。また『女大学評論』の論評は長くなるため省き簡略化した部分があります。
『女大学評論』は先ず『女大学』の内容を記載して、その後に批評を書く形を取っていますので、『女大学』の内容も『女大学評論』から引用しています。
『女大学』と『女大学評論』の関係については、『女大学』のトップページをご覧ください。