誰か過ちなからん

古語に、人聖人にあらず、誰か過(あやま)ちなからん。過ってよく改む。善、これより大なるはなしといへり。程子も、学問の道他(ほか)なし。其(その)不善を知れば、速(すみやか)に改めて善に順(したがう)ふのみといへり。不善とは、即(すなわ)ち過ちなり。過ちを知りて、改むるは、学問の要(よう)なり。
古い言葉では「人は聖人ではありえない。過ちのない者があろうか、過ってこれを改める。これより良い方法はありえない。」といっている。また程子は「学問の道はこれしかない。不善を知れば、速やかに善に改めることである。」という。不善とは過ちの事である。過ちに気が付いて改めるのが学問の要である。
 
これは貝原益軒の『大和俗訓 心術 上』にある言葉です。
古語とは『春秋左氏伝』にある言葉のようです。また程子とは宋の時代の程顥(ていこう)程頤(ていし)の兄弟・儒学者のことで『二程全書』という書物が残っています。
 
人は我が身の過ちと悪を知ろうとしない。こまごまとした知識がないことは大したことではないが、この過ちと悪に気が付かないことは憂えるべき事である。と益軒は言い、最後に次のように書いています。
 
身を省み、人の諫めを聞ききて、我が過ちを知るべし。