赤松則房の事

赤松則房は、足利尊氏が九州落ちした際に播磨で後醍醐天皇方の勢力を防ぎ、尊氏を京に復帰させることに大きく貢献した赤松円心の家系になります。赤松氏は播磨の守護として代々続きますが、戦国時代には配下の台頭もあり、力を失ない領地を減らします。
1579年、備前の一大勢力・宇喜多直家は秀吉の命で派遣された孝高の説得で、毛利から織田側へ寝返ります。この時、秀吉は播磨の赤松則房に対して宇喜多氏の配下に入るよう命令していますが、則房はこれを拒否しています。『黒田家譜』ではこの事情が次の通り記述されています。
 
赤松は元来播磨美作備前三ケ国の守護なり。宇喜多は元赤松の家人浦上の家老なりしかば、流石其下に属せん事、本意なくや思われけん、秀吉の命に従わず。秀吉大に怒て、赤松を殺さんとし給う。孝高赤松が罪なくして誅せられん事をいたはしく思い、ひそかにすすめて北国に出奔せしむ。その後秀吉彼が在所を聞て、又是を殺さんとし給ふ。孝高つとめて其罪をわび申さるるにより、やうやう死をのがれて、終に浪人となる。
 
書物によっては則房は秀吉に気に入られていたともいわれているようで、実際のところは不明な点が多いようです。益軒は『黒田家譜』の注釈に「赤松氏後に家康公に被召出、姓を改めて石野氏と称す。」と付け足しています。