筑前国続風土記

1630年貝原益軒は福岡藩の藩医の子として生まれ、京都、長崎、江戸で見聞を広めます。 益軒は自分の目で見て考え納得したことを文章にする実証主義の人だったようで、 「筑前国続風土記」を著すにあたって筑前各地へ自ら足を運び、史跡を確認し、地元民の言い伝えを聞き集めています。知識を古書で習得したものの、その知識を自身の目で確かめる事の重要性を益軒は考えていたようです。

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【「筑前国続風土記」に関する投稿】

麻生家信の事 投稿日2023年5月3日
筑前国続風土記の古城古戦場三「内藤陣山」には現在の北九州市一帯に勢力を張った麻生氏の嫡男・麻生家信の事が次の通り書かれています。   或る時、秘蔵の名馬、絆綱(はなずな)をはり切、城中より敵 [...]

古城古戦場 背振山 投稿日2022年2月6日
『筑前國続風土記』古城古戦場五 背振山 には次の通り書かれています。   南朝記にいわく、南朝天授元年(1375年)三月、探題今川了俊、大内茂弘、筑前背振山に陣す。菊池肥前守松浦黨(ともがら [...]

休松の戦い 投稿日2020年7月29日
織田信長が斎藤氏の稲葉山城を攻略し天下布武の印を使い出した頃、筑前では毛利氏の援助を受けた秋月氏が大友氏に対し抵抗の狼煙を挙げます。これに大友宗麟は2万の軍を派遣し秋月氏の本拠地・古処山城を攻めますが [...]

龍宮寺の由来 投稿日2019年11月5日
筑前国続風土記 巻之四 で龍宮寺の由来が寺家の言い伝えとして次のように紹介されています。 1222年4月14日(承久の乱の翌年)に博多で人魚が捕らえられます。この事が朝廷に上奏されると冷泉なにがしとい [...]

塔原の由来 投稿日2019年10月8日
筑紫野市塔原東には、むかし十王堂がありその境内に立っていた塔の礎石が今も残っています。 貝原益軒は「筑前国続風土記」の中で 「むかし此所(ここ)に塔あり、遠くより能(よく)見ゆ。此(この)塔ある故に [...]

野上一閑と三奈木弥平次 投稿日2019年2月3日
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりま [...]

昔は瓢箪で鵜飼? 投稿日2018年12月16日
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~ [...]

俗明院の由来 投稿日2018年10月14日
西鉄朝倉街道駅の南に俗明院という土地がありますが、貝原益軒は「筑前国続風土記」にその由来を次の通り記しています。 「太宰府の西南にある村の名なり。むかし九國二島より太宰府に来りし民、若くは久しく逗留 [...]

ういろうブランドの透頂香!? 投稿日2018年10月8日
「陳員外郎という者が1369年、元代末の乱をさけ博多に移住し、その後上京して将軍義満に種々の薬を献上した。義満はとりわけ透頂香(とうちんこう)を気に入り陳員外郎に京都西洞院に邸宅を賜ったが、その子孫が [...]

筑紫とは? 投稿日2018年9月12日
益軒は筑前国続風土記の冒頭で、筑紫について言及しています。 「此國を筑紫と名付し事、古は筑前筑後一国にして、是を筑紫といへり。故に日本紀等の古書に、筑紫といへるは、多くは筑前筑後をさせり。又九國をすべ [...]

九州にも千歳川? 投稿日2017年7月30日
千歳川は筑前筑後の間にあり、川を以て境とする。上座、下座(筑前国、現・朝倉市)の漁師は昔よりこの川にて鵜船を下して鵜を使い。各所に網を打って魚を獲る。地元の農民は堰を築き、水を引いて田地に注ぐ。これ [...]

徐福伝説は福岡にも? 投稿日2017年3月31日
徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かうが、その後、徐福は広い土地を得て王となり始皇帝の元に戻ってくる事はなかった [...]

鷲ケ岳城の攻防(1579年) 投稿日2016年10月31日
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひ [...]

おしどり伝説 投稿日2015年10月8日
-三原貞吉の話- 貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。 戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出か [...]

学校院跡 投稿日2014年7月19日
「筑前国続風土記」では、「学業院(学校院)は吉備真備(きびまきび)が建てたと伝えられているが、おそらく真備が天平6年(734)、大宰大弐に任じられた時の事ではないか」と推測しています。 また神護景雲3 [...]

針目城落城の原因 投稿日2014年7月6日
大友宗麟が「耳川の戦い」で島津軍に大敗すると筑前東南部では秋月種実が宗麟に対し叛旗を翻します。 種実は大友勢の抑止のため筑前と豊後との境界地帯の穂坂(原鶴温泉の東方)に針目城を築き、初山九兵衛という人 [...]

日吉神社(太宰府市観世音寺) 投稿日2014年6月22日
【日吉神社】 観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれる。 比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので、平安時代末には置かれていたらしい。 江戸時代の地誌によると”豊臣秀吉が九州下向の折 [...]

筑前にも超能力者がいた? 投稿日2014年3月2日
-筑前に存在した幻術師・火亂- 「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持 [...]

「濡れ衣」の語源は? 投稿日2013年8月18日
「藤原広嗣の乱」の前後の事だと思われますが、都より佐野近世(さのちかよ)という人が奥方と娘を伴い筑前の守として赴任して来ます。それからしばらくして奥方は亡くなり近世は地元の女性と再婚します。ところがこ [...]

万葉歌の意外な解釈 投稿日2013年8月4日
-御笠の森に関する逸話- 思はぬをおもふといはば大野なる美笠の森の神ししるらん この歌は奈良時代に大宰大監(筑紫の警察長官)であった大伴百代(おおともももよ)の詠んだ万葉歌で、一般的に次のような解 [...]

「朝倉橘広庭宮」はどこ? 投稿日2011年9月3日
-斉明天皇崩御の地- 「橘廣庭宮之蹟」の碑 中大兄皇子の母、斉明天皇は百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」(福岡市南区三宅)に滞在します。 5月には「朝倉橘広庭宮(あ [...]